元・育休パパが子育て支援とか考えつつ日々を記すblog

児童福祉施設の相談員として子育て支援・家庭支援に携わるようになったものの、第一子誕生を機に、自分自身の子育て・家庭が疎かになることへの危機感を抱き、子育てしつつ足元を見つめ直す必要を感じ、一年間+αの育児休業を取得 ⇒ 周囲の多大なる協力もあり、無事に育児休業を終えて職場復帰 ⇒ 3年後の第二子誕生時にも2か月の育休 ⇒ 時短勤務継続中。そんな人が第一子育児休業開始時から書き始めて、その後も不定期だったりまとめて書いたりしながらボチボチ続けているブログです。

育児休業と福祉

4月に育児休業から復帰するということで、

「児童福祉業界にいる自分が1年間+αの育児休業をとってみた」ことについて

またいろいろと思うことがでてきているので、覚書。

 

 

・・・自分が長期といえる育児休業を取る決心をし、

邁進してきた理由としては、振り返ってみるといろいろある。

 

もちろん、まだ男性の育児休業が社会的に浸透しきっていない中でのことであるし、

周囲の多大なる協力もあって実現できたことは大前提であるが、

あくまで自分の中での理由に絞り、

すでに何度か振り返っている過去記事をもとにもう一度まとめてみる。



・息子氏の誕生に伴い、自分自身の子育て・家庭が疎かになることへの危機感を抱き、

 子育てしつつ足元を見つめ直す必要を感じた(2018/02/01記事より)


・自分の成育歴から、妻にワンオペ育児をさせたくなかった(2018/11/24記事より)


・過去や現在の職場でハードモードの子育てを見ていた分、

 子育て自体へのハードルが高く、ビビってしまっていた(2019/02/06記事より)


・子育てに対して、「当事者」として、仕事を離れてでも
 ちゃんと向き合ってみたかった(2019/03/28記事より)


・・・これくらいかな。確かに。

 

あとは率直に、 「我が子の成長を身近で見たり感じたりしたかった」とか

「我が子とたくさん関わりたかった」というのも結構強いかも。

 

 

 

これらの振り返りを、さらにメタ的に振り返ってみると、

「子どもができるという家庭内の大きな変化の中で、

 育児にコミットメントしたいという自分なりの必然性を感じたものの、

 それまでと同じように働きながら育児にコミットメントすることは難しいと感じた」

から育児休業を取った、ということになると思う。

 

 

 

 

・・・今や日本総「人手不足」社会といっても過言ではないくらいの状況で、

これからは全業種の人手不足がどんどん進行するであろうが、

福祉業界は特に、だいぶ前から「慢性的な人手不足」な業界である。

 

高齢者福祉でも障害者者福祉でも児童福祉でも、

一定水準以上の「福祉の質」を確保しようと思えば、

人数的な意味のマンパワーが必要不可欠である。

 

しかし現実は、十分とは到底思えない人員配置の中で、

スタッフ自身の精神衛生やら福利厚生やらも犠牲になりながら、

ただみんな「精いっぱいやっている」から成り立っていると思う。

 

やりがい搾取と揶揄されるのも無理ない。

  

 

対人援助サービスは、巷で話題のAIやらICT化やらで

カバーするにも限界がある業種ではあるし、

本質的な業務のハードさとそれに見合った報酬の少なさを忌避して、

今後はいっそう人では足りなくなっていくことは十分に予想される。

(個人的には、業務をスムーズにするためにも、

ICT化はもっと推進されて然るべきだとは思っているけど、

そもそも現場に新たな事を受け入れる余力が少ないという面もあると思う)

 

 



・・・しかし本来、福祉全般にいえることだが、

対象者のためには、長期的に働いてくれる人のほうが

ありがたい存在であると思う。

 

 

私は、対象者の生活が持続可能であるようにいかに組み立てるか、

というのが福祉という仕事の大切な部分であると思っている。

 

 

そしてもちろん、他でもない「当事者」の方の生活なので、

そのニーズやら思いが最重要視されるのが大前提。

 

そうなると、生活に深くかかわりうる福祉のお仕事で、

当事者の方の事を「良く知っている人」は結局、

「長く働いている人」と大いに重なる面がある。

 

 

短期間でも適切に見立てて支援できる人や

そういった役割・立場の人も必要だろうけど、

福祉の対象者の方の人生は「長期的に」続いていく。

 

誰だって、身近にいる人が次々入れ替わるよりも、

同じ人がずっといてくれるほうが安心感があるもんだと思う。 

 

 

 

しかし、支援者だって人間。

その人の生活があり、人生がある。

 

 

結婚を機にとか、子どもができた/できそうなタイミングで

離職する、という人は自分の職場でも多く見てきた。

 

 

・・・対象者がよりよい生活や人生を過ごせるために、

支援者が自分の生活や人生を疎かにせざるを得ない。

 

 

そんな環境で働き続けられることは、「普通」か?

 

 

そんな環境にいる支援者が、本当に対象者の生活や人生を大切にできるのか?

 

 

・・・自分を愛せない人は他人も愛せない、みたいなことを聞いたことがあるが、

自分の人生を大切にできない人が、他人の人生を大切にできるのだろうか。

 

そして自分の人生を大切に扱ってくれない環境にいる人が、他人の人生を大切にできるのか。

 

 

 

そう考えていくと、「支援者が長く働き続けられる職場環境がある」ことが、

翻って、「対象者の生活がより良い形で持続できる」ことに繋がるのではないか。

 

 

そんな風に、最近思ったりします。

 

 

・・・これからの時代、福祉業界をはじめとする対人援助サービス業界では、

ある程度の人材の頭数を確保できなければ、

サービスの質を落とすことで対応するしかなくなる。

 

無理に少ない人数でこれまでと同じサービスの質を確保しようと思えば、

すでにいる人材が疲弊して辞めていく、という悪循環になる。

 

 

さらに、若者人材が売り手市場となっている現代においては、

若い働き手を確保しようと思えば、若者が興味と希望を抱く業界、

そして継続的に働き続けられる業界である必要がある。

 

 

さらに、一時的に自分の人生の中で家庭を優先したい時期が来ても、

その後また復帰できたり再チャレンジできるような業界。

 

 

その人が単身者であろうが、父であろうが母であろうが、

個人として目標を持ち仕事に邁進したり、プライベートも大切にできたり。

 

何より「自分の人生を大切にできる」社会。

 

そんなんができたら理想だろうな、なんてことも思ったり。

 

 

だから、支援者が働き続けられるように、

支援者自身の余白やら生活のゆとりを確保できるようにするのは、

職場の福利厚生として、という面もあるが、今後は、

業界の生き残り戦略としても必要不可欠になっていく気がする。

 

 

 

 

 

 

 

・・・はてさて、自分の人生「も」大切にするために、

私はこれから、何をどうやっていこうかな。

子育て支援の目標について

 

私が育児休業を取った裏テーマとして、

子育て支援に携わる者として、子育てに当事者としてしっかり向き合ってみたい」

というものがあった。

 

同じ立場にならないとその人の本当の心情はわからない、っていってしまうと、

全ての人の人生を経験できるわけではないし、「支援者」としての名が廃る。

 

・・・そう思ってやってきたつもりだった。

 

 

ただ、育児休業を取る前は特に、仕事の上でのスタンスや立ち位置に

迷ったりすることも多かった。

そんな、中途半端なモヤモヤ感ばかり蓄積されていく現状を打破するべく、

一度、基本の基本に戻るというか、違う視点で見るというか、

端的に言えば仕事から離れる、ということは自分にとって必要だったのだと思う。

 

それからの経緯や心情などは、このブログに書いてきたとおりであるが、

今思えば、「子育てに向き合う」ことを通して、

自分にも向き合ってきた(向き合わざるを得なくなった)のだと思う。

 

 

そんな中で、強く共感するようになったのは、例えばこんな漫画

corobuzz.com

 

息子氏は、そりゃあもう絶対的に可愛いことは間違いない。

ただ、しんどいものはしんどいし、辛いものは辛い。

 

だからこそ一人で抱えるのではなく、みんなで、チーム

育児をしていかないと、とてもじゃないけどのりきれない。

 

 

子育てにかかわる正論とか、精神論とか、

吐き気がするくらい嫌いになった。

 

 

・・・そうやって色々考えていくと、

子育て支援の目標」とは、つまるとこ、

子育てにおいて、いかに当事者の「余裕」を確保していけるか

なのかもしれない、と思い至った。

 

 

 

少なくとも、当事者であった自分自身に必要だったのは、

精神的な余裕やら余白やら、心のゆとりやら、

そんなことだったと思う。

 

 

子育てはどうしても余裕やゆとりやらがなくなる分、

それらを大切にする自分やら周りが、

何より「必要」なんだとしみじみ思っている今日この頃。

 

子育てはみんなでするもの、だった

子育ては一人でするのでなくチームでするものという確信に至った私

 

そもそも、核家族でのワンオペ育児が主流になったのは

戦後日本のみであり、人類の歴史から言うと子どもを

「共同養育」をしていた時期のほうが長い、みたいな言説を

どこかで聞いたことがあった。

 

どこやったかなぁ~と調べてみると、そのものではないが、

似たようなことを書いていたネット記事が見つかった。 

www.huffingtonpost.jp

 

以前にこのブログでも書いたこともあるが、 

ホルモン的にも、女性が産後に共同保育を必要としているらしいことも書かれていた。

 

共同養育できる社会では、子どもも多く産みやすいし、育てやすい。

当たり前のことだと思う。

 

地域での共同養育が自然と出来ていた昔を礼賛する気はさらさらないが、

いかに「みんなで子育てできるか」を考えていくことは、

現代社会の宿命ではないか、とすら思う。

 

 

そう考えると、今勤めている児童養護施設では、

「仕事」として血縁関係のない子どもの養育に携わるわけだが、

そこへの葛藤はずっとなんとなくあった。

 

ただある意味では社会的なセーフティネットということで、

人類における原点回帰な仕事なのかもしれない、

なんてたいそうな事を思うようになったり。

 

 

・・・つくづく「1人で抱えない子育て」について、

いろいろと思う自分がいることに改めて気づかされる。

 

育児は仕事の役に立つ

こんな本を、育児休業中に読んだ。

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(画像はAmazonより)

 

 

タイトルにもなっている「育児は仕事の役に立つ」という結論は、

読んでみても、至極納得いくものだった。

 

 

著者からすれば「そんな浅い理解してるんじゃねーよ!」っていう

飛び蹴りが来るかもしれないということも覚悟のうえで

ざくっと自分なりにまとめてみる。

 

・共働き家庭は現代日本で多数派になってきているが、その中では、

 育児は仕事以外の時間という「時間的制約」もある中で

 いかにスムーズに実行できるかということを余儀なくされている。

・育児は、1人で抱えるのではなく、

 家庭内でチームとして協働的に実行し、必要な情報を共有したり、

 家庭外の他者とも連携したりすることが肝になってくる。

・さらに育児に積極的に携わることは、職場で必要なスキルの向上や、

 人格的成長にすら関わる可能性がある。

・育児の体制をいかに作るかは、職場やパートナーの理解、

 そして自身が「助けて」と言えるかどうか、とも関係している。

 

・・・かなり端折っていますので、詳細知りたい人は読んでください。

 

 

 

育児を経験しなくても、仕事で役立つ人材になることはもちろん可能だが、

育児に向き合い、責任もって育児を進めていく上では、

確かに、仕事にも必要な要素がいっぱいちりばめられているなぁと気づかされた。

 

あと育児をしていて本当に何度も感じることだが、

育児は一人ですべてするのは無理だし、

いかに育児を一人で抱えずにすむ仕組みづくりができるか、

が育児に携わる人すべてに必要なんだと思う。

 

 

そんなことを、改めて確信した。

そして父になる

映画「そして父になる」を見て、なんかいろいろな思いをもちつつ、

まとまらないまま、実は数か月が経過していたのだが、

育児休業を終えていくにあたり、少しまとめてみようと思った。

 

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(画像はAmazonから)


この映画は、現実にも生じたことがある乳児取り違え事件を参考にしたもので、

第66回カンヌ国際映画祭 審査員賞を受賞したことでも有名な作品。

 

血縁関係のない子どもを6年間育てていたことが発覚し、

その間過ごした「時間」をどうとらえるか、どうとらえるようになっていくか、

といったことがテーマになっており、

「家族」や「父」について考えさせられる映画。

 (その他詳細はこちら⇒そして父になる - Wikipedia

 

 

昔見たことはあったので2回目の視聴ではあるが(見始めてから思い出した)、

実際に子どもができた今となっては、感じ方が少し昔とは違っていた。

あと自分の子どもではない子どもの養育に関わるという職場であるというのも、

この映画へのとらえ方を少し変えていたのかもしれない。

 

客観的事実がどうか、一緒に過ごした時間がどれくらい長いか、

ということだけではなく、その時間の質というか濃さというか、

人との関わりの中では、そういったことのほうがものをいうことがある。

 

 

・・・今私は、育児休業のおかげで、父として息子氏や妻との時間を

人より多く過ごすことができている。

 

そのおかげもあって、息子氏は妻だけでなく私にも懐いてくれており、

いわゆるアタッチメント(愛着)というものを感じさせてくれる。

 

そしてそのことは、育児を妻に偏らせない一助にもなっている。

 

 

ただ、仮に一緒に過ごした時間が、余白のない、ギスギスとした時間ばかり

だったとしたら、どうだっただろうか?

 

どうしても余白をなくしがちな私は、そうなる危険性も兼ね備えていたし、

むしろ、一緒に過ごす時間の「量」で

カバーしただけかもしれない、なんてことも思う。

 

 

一緒に過ごした時間の量が少なくても、その質やら濃さが

お互いにとって十分だったら、それでもいいのかもしれない。

 

というかその質やら濃さの「十分さ」は当事者以外の誰も、決めようがない。

 

 

 

親だってかけがえのない自分の人生を生きている。

 

親とはいえ、個人としての目標や人生を謳歌したい、というのも大切。

一方で、子どもにとってかけがえのない親の存在は大きい、というのも大切。

 

そのバランスに答えなんかないようにも思う。

 

 

子どものためにすべてを犠牲に、というのは美談になりがちだが、

「お前のためにこっちはいろいろと犠牲にしたってるねん!」

てのは子どもに対して恩着せがましいだけで、子どものためにはならない。

 

 

結局のところ、「父になる」というのは、

子どもと過ごす時間の質や濃さを自分なりに大切にする、

ということなのかもしれない。

 

ただでさえ長時間労働が問題になりがちな日本では、

家庭を十分に顧みることができない人は多くいるだろうし、

もともと奥さんに任せるつもりで顧みる気がそもそもない人もいるかもしれない。

 

そのバランスは家庭によって違うだろうし、

その家庭内での一定の合意の上で、

ある程度バランスが取れていたらそれでいいんだと思う。

 

 

とはいえ、少なくとも私は、育児休業から復帰したら、

どうしても息子氏と過ごす時間の「量」は減るので、

その分、息子氏と過ごす時間の「質」を

十分なものにしていくべく、頑張っていこうと思った。

余白

あと10日ほどで育児休業が終わる。

 

息子氏の子育てが中心とはいえ、合間を縫って資格試験やら引越しやら仕事やら

していたら、気づけばあっという間だったなぁ、と1年+αを振り返る。

 

 

・・・その中でも一番の収穫は、

自分の中での「余白」を大切にする

ことを学んだことかな、なんて思う。

 

 

もともと、いろいろ詰め込んでしまいがちな自分に嫌というほど気付かされた。

以前にも書いたことがあるが、「無力な自分」に向き合うことを避けて、

何かをやっていることで、「できる自分」でいたかった

という面が大いにあると思う。

 

実際にそれで進展できたことはいろいろあるとはいえ、

無力である自分を打ち消そうとし続ける限り、何かをやり続けないといけない。

そんなマグロみたいな生き方は、ずっとは続かない。

 

 

それに、日常の中に「余白」がないと、

息子氏に笑顔を向けることができないし、日々のちょっとした変化に気付けない。

妻とゆっくりと会話・雑談を楽しんだりすることもできないし、

自分の心がいつも追い立てられて、落ち着いていられない。

 

 

あとそのためにも、やりたいこと・やりたくないこと、

やらないといけないこと・やらなくてもいいこと

それらをちゃんと見極めることは大切。

 

 

家事に代表される「シャドーワーク」をしないと日常は回らない。

 

・・そういう意味では家事は「やらないといけない」ことだが、

余白がゼロな状態でないと続かない日常は、どこかに無理がある。

 

緊急事態など非日常では余白とか言ってられないが、

逆に、余白のない非日常が、日常的になってしまうのは、避けたい。

 

それなら、無理をしていることをちゃんと自覚して、他の人の力を借りてでも、

何とか「無理なく続けられるカタチ」を模索していくほうがいい。

 

 

さらに家事が「やりたいこと」ならいいが、もし「やりたくないこと」ならば、

日常に支障がないラインを見極めて、

手抜きできるところはいくらでも手抜きをしたらいい。

 

誰かが「やらないといけない」家事や作業っていくらでもあるし、

みんなが「やりたくないこと」なのであれば、

みんなで話し合って分担するとか、「やりたいこと」になるような工夫が必要。

 

 

「やらないといけない」家事などがあって日常が回っている。

 

その大切さはしっかり自覚した上で、

少しでも「やりたいこと」を個々で尊重し合い、大切にできたら、

日常にちょっとでも「余白」が生まれるような、そんな気がしている。

 

 

 

・・・またまとまらなくなってきたが、

「自分の余白がどれくらいあるか」も踏まえて

日々を過ごしていくことの大切さを学べたことは、

息子氏が生まれたことを契機に取得した育児休業によって学べたことで、

今後の人生においても大切にしていきたいことでもあることは間違いない。

 

 

 

追記:

育児休業によって余白ができた、というように読めてしまうなと思い、補足。

(まぁ仕事をしながらの育児だと、私は余白を完全になくしてしまっていた

 だろうし間違いではないが、今回の記事の趣旨とはちょっと違う)

 

「育児」という営みにおいて、必然的に子どもの都合が大いに反映されるため、

大人の「余白」はどんどん削がれる。

 

私は長期の育児休業を取ることで「育児」に向き合うことを試みたが、

もともと「余白」の少ない生き方・過ごし方をしがちだった私は、

「育児」と向き合うことで、どんどん自分の「余白」を削ってしまっていた。

 

いわゆる仕事では、自分の余白を削ってでも結果的に

パフォーマンスが上がれば評価されることもある(本当は良くないと思うけど)。

 

ただ「育児」においては、「余白」がなくなることの弊害が少なくない、

むしろ「余白」を確保しておかないと長いこと続けていけない、

そう確信したからこその今回の記事です。あしからず。

悪化する便秘

離乳食を始めたころから便秘がちになっていた息子氏は、

今でも排便は、だいたい3日に1回くらいの頻度。

 

・・それが今月に入った頃からさらに悪化して、1週間くらい出ない日が続いた。

 

母乳外来にいかざるを得ないくらいの授乳の痛みに耐えかねて、

日に日に授乳頻度や時間が少なくなってきていることも大いに

関係していると思われるが、最早いかんともしがたい。

(体に入る水分が単純に減るから、だったりもするらしい)

 

 

さすがに1週間たまったものを出すときの息子氏はかなり痛そうで、

泣きながら、コロコロとした便を二日に分けて出すので精いっぱい。

 

 

・・・一時期はうんち爆裂拳・師範代を襲名するくらい、ところかまわず

ブリブリしていた息子氏が、こうなるとは、予想だにしなかった。

 

成長に伴うものではあるとはいえ、しっかり水分とらせたり、

バナナやら繊維質のあるものをちゃんと食べさせようと思った

我が家なのでありました。

 

 

 

追記:朝食にバナナをあげ続けていたら、2日に1回くらいまで排便の頻度が回復した。

食事の持つパワーってすごい。