元・育休パパが子育て支援とか考えつつ日々を記すblog

児童福祉施設の相談員として子育て支援・家庭支援に携わるようになったものの、第一子誕生を機に、自分自身の子育て・家庭が疎かになることへの危機感を抱き、子育てしつつ足元を見つめ直す必要を感じ、一年間+αの育児休業を取得 ⇒ 周囲の多大なる協力もあり、無事に育児休業を終えて職場復帰 ⇒ 3年後の第二子誕生時にも2か月の育休 ⇒ 時短勤務継続中。そんな人が第一子育児休業開始時から書き始めて、その後も不定期だったりまとめて書いたりしながらボチボチ続けているブログです。

余白

あと10日ほどで育児休業が終わる。

 

息子氏の子育てが中心とはいえ、合間を縫って資格試験やら引越しやら仕事やら

していたら、気づけばあっという間だったなぁ、と1年+αを振り返る。

 

 

・・・その中でも一番の収穫は、

自分の中での「余白」を大切にする

ことを学んだことかな、なんて思う。

 

 

もともと、いろいろ詰め込んでしまいがちな自分に嫌というほど気付かされた。

以前にも書いたことがあるが、「無力な自分」に向き合うことを避けて、

何かをやっていることで、「できる自分」でいたかった

という面が大いにあると思う。

 

実際にそれで進展できたことはいろいろあるとはいえ、

無力である自分を打ち消そうとし続ける限り、何かをやり続けないといけない。

そんなマグロみたいな生き方は、ずっとは続かない。

 

 

それに、日常の中に「余白」がないと、

息子氏に笑顔を向けることができないし、日々のちょっとした変化に気付けない。

妻とゆっくりと会話・雑談を楽しんだりすることもできないし、

自分の心がいつも追い立てられて、落ち着いていられない。

 

 

あとそのためにも、やりたいこと・やりたくないこと、

やらないといけないこと・やらなくてもいいこと

それらをちゃんと見極めることは大切。

 

 

家事に代表される「シャドーワーク」をしないと日常は回らない。

 

・・そういう意味では家事は「やらないといけない」ことだが、

余白がゼロな状態でないと続かない日常は、どこかに無理がある。

 

緊急事態など非日常では余白とか言ってられないが、

逆に、余白のない非日常が、日常的になってしまうのは、避けたい。

 

それなら、無理をしていることをちゃんと自覚して、他の人の力を借りてでも、

何とか「無理なく続けられるカタチ」を模索していくほうがいい。

 

 

さらに家事が「やりたいこと」ならいいが、もし「やりたくないこと」ならば、

日常に支障がないラインを見極めて、

手抜きできるところはいくらでも手抜きをしたらいい。

 

誰かが「やらないといけない」家事や作業っていくらでもあるし、

みんなが「やりたくないこと」なのであれば、

みんなで話し合って分担するとか、「やりたいこと」になるような工夫が必要。

 

 

「やらないといけない」家事などがあって日常が回っている。

 

その大切さはしっかり自覚した上で、

少しでも「やりたいこと」を個々で尊重し合い、大切にできたら、

日常にちょっとでも「余白」が生まれるような、そんな気がしている。

 

 

 

・・・またまとまらなくなってきたが、

「自分の余白がどれくらいあるか」も踏まえて

日々を過ごしていくことの大切さを学べたことは、

息子氏が生まれたことを契機に取得した育児休業によって学べたことで、

今後の人生においても大切にしていきたいことでもあることは間違いない。

 

 

 

追記:

育児休業によって余白ができた、というように読めてしまうなと思い、補足。

(まぁ仕事をしながらの育児だと、私は余白を完全になくしてしまっていた

 だろうし間違いではないが、今回の記事の趣旨とはちょっと違う)

 

「育児」という営みにおいて、必然的に子どもの都合が大いに反映されるため、

大人の「余白」はどんどん削がれる。

 

私は長期の育児休業を取ることで「育児」に向き合うことを試みたが、

もともと「余白」の少ない生き方・過ごし方をしがちだった私は、

「育児」と向き合うことで、どんどん自分の「余白」を削ってしまっていた。

 

いわゆる仕事では、自分の余白を削ってでも結果的に

パフォーマンスが上がれば評価されることもある(本当は良くないと思うけど)。

 

ただ「育児」においては、「余白」がなくなることの弊害が少なくない、

むしろ「余白」を確保しておかないと長いこと続けていけない、

そう確信したからこその今回の記事です。あしからず。