元・育休パパが子育て支援とか考えつつ日々を記すblog

児童福祉施設の相談員として子育て支援・家庭支援に携わるようになったものの、第一子誕生を機に、自分自身の子育て・家庭が疎かになることへの危機感を抱き、子育てしつつ足元を見つめ直す必要を感じ、一年間+αの育児休業を取得 ⇒ 周囲の多大なる協力もあり、無事に育児休業を終えて職場復帰 ⇒ 3年後の第二子誕生時にも2か月の育休 ⇒ 時短勤務継続中。そんな人が第一子育児休業開始時から書き始めて、その後も不定期だったりまとめて書いたりしながらボチボチ続けているブログです。

陰性証明・・?

  
これまで保育園に引っかかることが何回かあり、

言いたいことも言えないこんな世の中じゃPOISONなので、

直接話をしてきたことがある。

 

今回は間接的に対応したエピソード。

 


 
娘氏の保育園クラスで、新型コロナウイルスに罹患した子どもが何人かいた。

そこへきて、娘氏が再び発熱した。

ただ病院で検査をして、陰性だったので、

息子氏のときも散々お世話になった病児保育に預けることができた。


 
すると、別フロアにある息子氏のクラスの先生が、主任さんに確認しつつ、

「息子氏について、陰性証明がないと登園できない」との旨を妻に言ったようだ。

 

 

 
・・・無症状の息子氏は、病児保育に預けることはできない。

この医療崩壊的な状況下で、無症状の息子氏を受診させることは現実的でない。

しかも検査を受けるかどうかは、医師の判断で、こちらがどうこう言うものでもない。
 

 

どうしろと???

 


 
保育園として、感染が広がらないように、陰性を確認したい思いはわかるが、

それがないと保育園に預けられないというのは話が違う。

 

 

しかもタイミングが悪いことに、私が宿直で家を不在している日のことだった。

妻は悩んだ末に、仕事帰りに、まだ発熱中の娘氏と、息子氏を連れて、

無料の検査センターにいって息子氏を受検させ、

陰性であるという結果をもらってきた。

 

 
そこまで労を折ってくれた妻には感謝なのだが、

保護者にそこまで労を折らせないと預けられないというのはおかしくないか??と

強く不満と不信を持ったのと、ないとは思うが、

役所の指示でそうなっているのかもしれないという可能性を消すために、

管轄の役所に電話した。

 

 「陰性証明」なるものを保育園の登園に必要だと言われたが、

公的にそういった書式があるなり、そういった対応を自治体としてされている事例を

把握しているかどうか、あたりを丁寧に聞いてみた。

 


・・・すると、やはりそういった書式はないし、

そういう対応をした保育園を教えてほしいとのことで、正直に伝えた。
 

 

すると翌日に、園長名義で、陰性証明は登園に必須でないという手紙が届いた。

 

やっぱそうか・・と思いつつ、妻がかけた労力は何だったのか、とも思う。

 

 

個人をとやかくいうのは嫌だが、立場のある人は

それなりに責任を持った発言をして、

不要に保護者を混乱させないでほしい。
 

 

・・・児童福祉施設に勤める者として、自戒を込めて。

 

 

療育&公文から、息子氏の才能を感じる

 

息子氏について、療育の案内があり、見学やら諸手続きを終えて、

いよいよ今日から療育がスタート。

 


仕事が遅い時間の日をできるだけ固定して、自分が送迎を担うことに。

 

1歳下の男の子も同じタイミングでスタートしていて、

どちらも意識はしている感じはありながらも並行して活動したり遊んだりする。

 

 

2人の子どもに対して、それぞれの保護者と、先生が3人で、

人手としてはかなり手厚い状況で、声掛けもみんな優しいので、

息子氏、初回から活き活きとしていて、

「楽しかった」「また来たい」とのこと。


よかったよかった。

 

 

・・・ただ午前中1時間だけで療育が終わってしまうので、

午後から保育園に行くかどうかを考えていた。

 

そこで、以前から導入を検討していた、

公文式学習も同じタイミングでスタートすることにした。
 
 

 

公文式学習は、職場でも取り入れているのだが、

さすが何十年も継承され全国に広がっているだけあって、

よくできた教材・システムだと思う。
 


問題の解き方を細かく指示するのではなく、

パターンで覚えられるような教材の構成。

 

 

反復練習を経て習得していけば、考えるより先に手が動く。

 


本人のペースや熟達度によって進度は調整可能。

 


教材に取り組んでいくうちに徐々に難易度があがりつつも達成感が得られる。

 

 

 

・・・・あと息子氏に取り入れたかった理由の最たるものとして、

「机に一定時間座り、鉛筆をもって課題に取り組む」

という習慣の形成がある。

 

 
学力の積み重ねというより、その習慣づけが大いなる目的。
 
 

 
・・・息子氏は、気づけば再来年度には小学生。
 
環境が大いに変わるので、息子氏の特性上、

正直、負担は大きいかと思っているし、

できるだけ事前に慣れておけるものには慣れていけるように・・

という親心がある。
 

 

とはいえ、勝手な親心が息子氏を追い詰めるようではあってほしくないし、

息子氏がちょっとでも楽しんでくれたら・・・と思っていた。
 

 

そこはさすがの公文式。しっかり本人が楽しめた様子。

絵本を読む習慣があることで、ひらがなもカタカナも

すらすら読む息子氏に、先生も感服していた。

 

公文式は夕方で、義父に送迎を依頼していることもあるため、

その点も大感謝。

 

 

 

保育園とはまた違った環境で、息子氏の天賦の才が、

花開いていく予感しかない(←親バカ含む)

 

 

 

「しつけは問答無用に行わない。しつけにこそ問答が必要。」


前々回前回に引き続き、こんな格言を思いついた。
なんだろう、ここ数回の格言ブーム。
 
今書きながら思うこととして、この間、妻が育児休業から復帰したり、
それでも娘氏がちょいちょい保育園を休んだりで
日々がとってもバタバタしている分、思考の渦に逃避しているのかもしれない。
 

 

・・・まぁそれはさておき。
 
時代劇とかで、「ちょっと待て、話せばわかる・・」⇒「問答無用!」って、
悪人?が刀で切られるシーンありますよね。
 

 

でも、しつけは問答無用じゃあいけないな、って自戒を込めて、思っています。
 


息子氏は、所謂イヤイヤ期とされる時期を経て、

ピークは過ぎたものの、自我が目覚めている。

つまりは自分の主張が出てきやすい大事な時期である。
 

ちなみにイヤイヤ期と言う呼び名自体、

親の目線に立ちすぎで実態がわかりにくい

という指摘があるらしい。
 


親目線で言うと、ただイヤって言いたいだけやろがい!

ってツッコミを入れたくなったり、

じゃあどうしたいねん!はっきりして!って

大変に思う気持ちは頷きすぎて首がもげそうになるくらい

わかりすぎるんだけれども。

 
子どもとのやり取りが面倒になったりしんどくなったりして、

「いいから○○しなさい!!!」「なんでもいいから早くして!!」

って怒鳴りたくなったりもして。

(その後に、言いすぎた、ごめん・・という後悔もセットで。嗚呼 涙)

 

 
これくらいの幼児期は、社会のルールや生活習慣を、子どもが『徐々に』学ぶ時期でもある。
 
それらは子どもの本能に反したりすることもあるし

(寝たい!遊びたい!食べたい!とか)
ただ自分が主張したい!とか主張できる自分を確認したい!

みたいな時期でもあったりするので、

そう簡単に「しつけ、終了!」とはならない。

 

 

だから『徐々に』学んでいく。
 

 

 

しつけは、子どもが自律的に生活を送れるよう、子どもの社会性を育む行為。

 

 
自律的というのは『自分を律する』と書く。

しつけの過程で、他人が子どもを律するという『他律』を

行うことはあったとしても、最終的に、

子ども自身がルール等を自分のものにしていく必要がある。

 

 
なので、しつけを『問答無用』で行っていては、

子どもはなぜ本能を脇に置いてまで

その社会的行動をとらないといけないのか、理解できない。

 

だから、その子どもの発達や状況に合わせた『問答が必要』になる。
 

 

それはかなり息の長い取り組みとなるので、

大人側の忍耐やエネルギーも必要になる。

 

「もういい加減分かれ!」「早く分かれ!」と言いたくなる気持ちを

『自分で律する』ことができるかどうか、大人側も問われることになる。
 

 


・・・やはり、適切なしつけを行うためにも、

必要な『問答』ができるよう、

大人側の『余裕』もまた、必要なのだと強く思う。
 

「誉めるときは人を。叱るときは行動を。」

 

前回に引き続き、こんな格言を思いついた。
 

 

子育てにおいて、褒めるって大事って言われますよね。


効果的な褒め方って、それこそペアレント・トレーニングなどの文脈で

ひたすら口酸っぱく言われることである。

 

もう少し具体的なことを言うと、 

結果を褒めるよりプロセスを褒めたほうが良いとか、

(100点取れたことより、テスト勉強を頑張ったことを褒めるみたいな)

褒めるなら具体的な行動を褒めたほうが良いとか、

(すごいね~と大雑把に言うより、宿題を帰ってすぐしてすごいね~と言うみたいな)

いろいろなポイントを、私自身、これまでに学んできた。
 

 

 

・・・そんな中でも、意外と言われていないかもと思ったのが、

「褒める」と「叱る」の使い分け。

 


褒めるときにも具体的なプロセスを褒めたほうがいいというのはあるのだが、

ぶっちゃけ、その子の存在自体を褒める、というか認める、

みたいなスタンスもあっていい。

(あなたが居てくれるだけで嬉しい・幸せ・有難い、みたいな)。
 

 

ただ、叱るときに絶対やってはいけないことは、

その子の人格を否定するように怒ること。

(たとえば、ダメな子やな、本当に手がかかる子やな、とか)

 

 

子どもからすると具体的に何をどうしていいかわからないから

教育効果も皆無だし、自信もなくなるしで、

そういった働きかけは、無意味以上に害悪だといえる。
 

 

それでも、以前に紹介した「<叱る依存>が止まらない」にも書かれているように、

<叱る>という行為自体に依存性があるため、

それらの分別をきっちり付けた上で、毎回叱れるとも限らない。

 


そもそも、<叱る>ことの効果はかなり限定的で、

行動を一時的にストップさせるくらいしかないとされる。

 

だからこそ、褒めると叱るを対比させて、

「褒めるときは人を。叱るときは行動を。」

って言ってしまうほうがキャッチ―かもだし、

自分自身もそう思っておきたいと考えています。

 

 

 

「大人になりたいのが子ども、子どもでいたいのが大人」かもしれない

こんな格言を思いついたので覚書。
 

 

8月は、娘氏の入園からの保育園の洗礼に振り回される日々だった。

そんな中で、家では妻が娘氏との関わりが増える分、

息子氏との関わりは私の割合が必然的に増えてきていた。
 

 

そんな中で、息子氏が「僕はパパったんより大きくなるで!」

といったことをちょいちょい言ってくれていることに気づく。
 

 

四十路となっても不惑どころじゃない私ではあるが、息子氏からすると

大きい存在なんだな~としみじみしたり、素直に嬉しい思いはある。

 

あと、もっと大きくなりたい!というのって、なんというか、

とっても子どもらしい感じがして、何とも愛おしくなる。
 

 

・・・そこから、自分はちょっと休みたかったり、ゆっくりしたくなったり、

なんなら自分が家事に勤しんでいる中で、息子氏が玩具で遊んでいるのをみると、

ちょっと羨ましかったりするな、とふと思う。
 

 

 

こういうのっていつから切り替わるんだろう、とふと考えを展開してみる。
 

思春期くらい・・はまだ、大人ばっかりずるい!って思ったりして、

早く大人になりたかったりする。

 

でももう少し進んで、大学生になってきて、社会人が目前となってくると、

もっと子どもでいたいな~今のうちにもっと遊びたいな~って思ったりもする。

 

少なくとも私はそうでした。
 

 

・・・青年期という発達段階は、近代以降の概念だとされている。

さらに言えば、中世以前、「子ども」は、

大人の言うことを聞くことができるようになったら

働き手として、いわば「小さな大人」として扱われていた。

日本でわかりやすい例は、丁稚奉公とかかな。
 

それが、仕事の多様化・高度化・複雑化の流れができてきて、

働くまでの訓練期間が必要だということで、

子どもに教育を受けさせる学校制度が広まり、

高等教育も、先進国ほど一般的になっていく。

 

そんな中で、青年期は、子どもと大人の間の期間として誕生した。

 

 

そういう意味で、青年期というのは、

「子ども」と「大人」が重なる時期ともいえる。

 

子どもの世界が徐々に喪失していくと、子どもが羨ましくなるし、

大人の世界に入っていく前は、大人が羨ましい。

 

・・・なので、現代社会においては、

「大人になりたいうちはまだ子ども、子どもでいたくなったらもう大人」

なのかもしれない。

 

 
あーもっと遊びたい(笑)。
 

覚醒がおさまらない娘氏  

発熱のため数日遅れで入園しつつ、さらに保育園の洗礼を受けて

1週間の戦線離脱をした娘氏が、再び発熱している。

 

・・・・今週は再び休みになるな・・。
 

 

1週間ぶりに登園したときも、そりゃそうかとは思うのだが、
再び預けられることにギャン泣き。

 

迎えに行った時も、保育士さんから「ずっと泣いてました・・」とのこと。
 

ほんと、その逞しさを保育園に慣れる方向に使ってほしい・・というのは

親のエゴであることは百も承知で、そう思ってしまう。
 

 

・・・もし娘氏の言葉を代弁するなら

「またあたいをこんなところに預ける気!?なんでよ!

「いつもみたいに家でぬくぬく過ごしたいわ!!」

「おいていかれたー悲しぃぃー!!」

あたりだろうか。
 

 

日中のことが尾を引いてか、ここしばらく、夜の寝かしつけのときも、

一時間くらい泣き続けてなかなか寝ない。
 
いないいないばぁはあんなに好きなのに、

まだ対象の永続性が身についていないのかも。


つまりは、親が目の前にいないことが、

大人が想像する以上に恐怖なのだと、想像している。
 

対象の永続性が身についてくれば、

親が目の前からいなくなっても、目をつぶって寝てしまっても、

親は変わらず存在するし、また迎えに来てくれるとか、起きたらそこにいるとか、

そういった安心感が持てるようになる。
 
もうちょいの辛抱か・・と思う一方で、

慣らし保育の時間も徐々に伸ばしているとはいえ、

育児休業中の妻が基本的に保育園に送迎しているので、

泣き叫ぶ我が子の思いを想像してグッとくる妻の心中たるや、

というのも想像してしまう。
 
妻の職場は理解があるほうだとはいえ、

今月に無事に育児休業が終えられるかという心配もあったり。
 

 

あとは、妻や娘氏の思いについて、いろいろと想像はできても、

今は耐えて日々のことを行っていくしかない父の思い、というのも、

ちょっと誰かに想像してもらいたかったりするのはエゴだろうか、、

なんてことも思ったり。

 

・・・疲れているな。

 

保育園の洗礼、再び。


今月から入園した娘氏だが、慣らし保育で5日間行ったら、

息子氏と同じく、さっそく保育園の洗礼を受けた
 

要は、発熱で保育園を休んだ。
 

・・・冬のほうが感染症は広がりやすいというし、夏場は意外と大丈夫じゃないか、
というのは親の淡すぎる期待だったようで。
 

昨今の状況からすると、発熱で小児科受診するにも一苦労。
 
さらに、かかりつけ医が、いつの間にやら午前中しか開院しないことになり、
妻が育児休業から復帰してからのことを考えると、
通える小児科を増やしておく必要もあったり。
 

 

そういえば息子氏も、毎週のように発熱していたなー。

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2019.5.31 発熱、発熱。そして病児保育へ。

2019.8.10 病児保育にいきすぎる - 元・育休パパが子育て支援とか考えつつ日々を記すblog

 

半分くらいしか保育園に行けない時期もあったけど、今では年に1~2回熱を出すかどうかくらいで、体調不良はほとんどなく保育園に行っている。
 
娘氏もきっと、そうやって免疫力をつけていくのだろう。
 

・・・・来週中にはまた登園できる見込みではあるものの、
再び発熱が起こることを当然のこととして受け止めておく覚悟だけしておく。