前々回・前回に引き続き、こんな格言を思いついた。
なんだろう、ここ数回の格言ブーム。
今書きながら思うこととして、この間、妻が育児休業から復帰したり、
それでも娘氏がちょいちょい保育園を休んだりで
日々がとってもバタバタしている分、思考の渦に逃避しているのかもしれない。
・・・まぁそれはさておき。
時代劇とかで、「ちょっと待て、話せばわかる・・」⇒「問答無用!」って、
悪人?が刀で切られるシーンありますよね。
でも、しつけは問答無用じゃあいけないな、って自戒を込めて、思っています。
息子氏は、所謂イヤイヤ期とされる時期を経て、
ピークは過ぎたものの、自我が目覚めている。
つまりは自分の主張が出てきやすい大事な時期である。
ちなみにイヤイヤ期と言う呼び名自体、
親の目線に立ちすぎで実態がわかりにくい
という指摘があるらしい。
親目線で言うと、ただイヤって言いたいだけやろがい!
ってツッコミを入れたくなったり、
じゃあどうしたいねん!はっきりして!って
大変に思う気持ちは頷きすぎて首がもげそうになるくらい
わかりすぎるんだけれども。
子どもとのやり取りが面倒になったりしんどくなったりして、
「いいから○○しなさい!!!」「なんでもいいから早くして!!」
って怒鳴りたくなったりもして。
(その後に、言いすぎた、ごめん・・という後悔もセットで。嗚呼 涙)
これくらいの幼児期は、社会のルールや生活習慣を、子どもが『徐々に』学ぶ時期でもある。
それらは子どもの本能に反したりすることもあるし
(寝たい!遊びたい!食べたい!とか)
ただ自分が主張したい!とか主張できる自分を確認したい!
みたいな時期でもあったりするので、
そう簡単に「しつけ、終了!」とはならない。
だから『徐々に』学んでいく。
しつけは、子どもが自律的に生活を送れるよう、子どもの社会性を育む行為。
自律的というのは『自分を律する』と書く。
しつけの過程で、他人が子どもを律するという『他律』を
行うことはあったとしても、最終的に、
子ども自身がルール等を自分のものにしていく必要がある。
なので、しつけを『問答無用』で行っていては、
子どもはなぜ本能を脇に置いてまで
その社会的行動をとらないといけないのか、理解できない。
だから、その子どもの発達や状況に合わせた『問答が必要』になる。
それはかなり息の長い取り組みとなるので、
大人側の忍耐やエネルギーも必要になる。
「もういい加減分かれ!」「早く分かれ!」と言いたくなる気持ちを
『自分で律する』ことができるかどうか、大人側も問われることになる。
・・・やはり、適切なしつけを行うためにも、
必要な『問答』ができるよう、
大人側の『余裕』もまた、必要なのだと強く思う。