最近、息子氏とのお気に入りのコミュニケーションがある。
それが標題の「いないいないばぁ」である。
ただ顔を手で隠して「いないいない・・ばぁ」というのもいいのだが、
我が家でお気に入りの方法は、「息子氏参加型のいないいないばぁ」である。
たとえば、息子氏と自分との境目を、毛布を広げて見えなくする。
お互い座っている状態でも、何ならこちらは寝転がりながら毛布を自分の顔や息子氏に掛けてもいい。
そこで親が「あれ!?(息子氏)がいない!?どこいった?」と言う。
すると息子氏が、毛布を手でどけてくれる。
再度目が合うと、息子氏「えへぇ~」と満面の笑み。
・・鼻血が出るくらいに可愛いうえに、何回でもリピート可能。
このもとになったのは、偶然からはじまった、
いわば「息子氏主体のいないいないばぁ」である。
ふと息子氏がしゃがんでゲートで隠れて顔が見えなくなった。
そこで親側が「あれ!?(息子氏)がいない!?どこいった?」と言い、
息子氏が再び立って顔が見えたときに「あ!(息子氏が)おった!!よかった~」と
満面の笑みをする。
親の笑顔が強化子になり、何度かやっていると、息子氏が自分から、
ベビーゲートに隠れていないいないばぁをするようになった。
その発展バージョンとして、カーテンで隔てられている部屋にそれぞれがいるとき、
息子氏がカーテンをめくったり戻したりをくりかえしたり、というものもある。
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、
「目の前にないものはこの世に存在しない」とみなされる。
専門的な言葉でいえば、「対象の永続性」がない。
つまり、目の前に見えていたり知覚・認識できているものが、赤ちゃんにとっての世界のすべて。
目の前からいなくなっても、この世にまだ存在する、ということの理解ができない。
だから、まだ対象の永続性がない状態の赤ちゃんにとっては、親でもおもちゃでも、目の前になければそれはこの世に存在しない。
見えるところに親がいないということは、自分を世話してくれる人間がこの世にいないということになり、赤ちゃんにとっては生命の危機。だからギャン泣きする。
数日前に書いた、以前は見えないところにおもちゃを移動させればすぐに別のおもちゃで遊んでいたということも、見えなくなったものを諦めずに追いかけるという発想自体ができなかった、ということにもよる。
そして対象の永続性が身につきはじめるころにヒットする遊びが「いないいないばぁ」である。
親が見えなくなった=この世から消えた、と思っていたものが、
実は消えていなかった!という遊び。
そういう意味で、親が思っている以上に、
いないいないばぁは赤ちゃんにとってはスリル満点の遊びだったりする。
たとえるならば、ジェットコースターのようなもの。
ジェット―コースターは、実際に落ちたら死んじゃうような高さから、実際には落ちない安全な乗り物に乗りながらスリルを楽しむ遊び。
いないいないばぁは、実際にこの世から消えたら自分が死んじゃうような相手(養育者)が見えなくなってしまう状態から、実際にはいなくならないという安全が確保されているからこそ楽しめる遊び。
つまり、ある意味で、見えなくなっても実際にはいなくならない、という認識が育まれつつあるからできる遊びでもある。
息子氏がいないいないばぁを楽しめるようになったのは、息子氏が順調に発達している証であり、
息子氏からいないいないばぁをしかけられるということは、息子氏からすれば、自分から親子間のコミュニケーションを図ることができるようになる。
つくづく人間というのは、よくできているなぁなんて思ったり。