元・育休パパが子育て支援とか考えつつ日々を記すblog

児童福祉施設の相談員として子育て支援・家庭支援に携わるようになったものの、第一子誕生を機に、自分自身の子育て・家庭が疎かになることへの危機感を抱き、子育てしつつ足元を見つめ直す必要を感じ、一年間+αの育児休業を取得 ⇒ 周囲の多大なる協力もあり、無事に育児休業を終えて職場復帰 ⇒ 3年後の第二子誕生時にも2か月の育休 ⇒ 時短勤務継続中。そんな人が第一子育児休業開始時から書き始めて、その後も不定期だったりまとめて書いたりしながらボチボチ続けているブログです。

育児は仕事の役に立つ

こんな本を、育児休業中に読んだ。

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(画像はAmazonより)

 

 

タイトルにもなっている「育児は仕事の役に立つ」という結論は、

読んでみても、至極納得いくものだった。

 

 

著者からすれば「そんな浅い理解してるんじゃねーよ!」っていう

飛び蹴りが来るかもしれないということも覚悟のうえで

ざくっと自分なりにまとめてみる。

 

・共働き家庭は現代日本で多数派になってきているが、その中では、

 育児は仕事以外の時間という「時間的制約」もある中で

 いかにスムーズに実行できるかということを余儀なくされている。

・育児は、1人で抱えるのではなく、

 家庭内でチームとして協働的に実行し、必要な情報を共有したり、

 家庭外の他者とも連携したりすることが肝になってくる。

・さらに育児に積極的に携わることは、職場で必要なスキルの向上や、

 人格的成長にすら関わる可能性がある。

・育児の体制をいかに作るかは、職場やパートナーの理解、

 そして自身が「助けて」と言えるかどうか、とも関係している。

 

・・・かなり端折っていますので、詳細知りたい人は読んでください。

 

 

 

育児を経験しなくても、仕事で役立つ人材になることはもちろん可能だが、

育児に向き合い、責任もって育児を進めていく上では、

確かに、仕事にも必要な要素がいっぱいちりばめられているなぁと気づかされた。

 

あと育児をしていて本当に何度も感じることだが、

育児は一人ですべてするのは無理だし、

いかに育児を一人で抱えずにすむ仕組みづくりができるか、

が育児に携わる人すべてに必要なんだと思う。

 

 

そんなことを、改めて確信した。

そして父になる

映画「そして父になる」を見て、なんかいろいろな思いをもちつつ、

まとまらないまま、実は数か月が経過していたのだが、

育児休業を終えていくにあたり、少しまとめてみようと思った。

 

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(画像はAmazonから)


この映画は、現実にも生じたことがある乳児取り違え事件を参考にしたもので、

第66回カンヌ国際映画祭 審査員賞を受賞したことでも有名な作品。

 

血縁関係のない子どもを6年間育てていたことが発覚し、

その間過ごした「時間」をどうとらえるか、どうとらえるようになっていくか、

といったことがテーマになっており、

「家族」や「父」について考えさせられる映画。

 (その他詳細はこちら⇒そして父になる - Wikipedia

 

 

昔見たことはあったので2回目の視聴ではあるが(見始めてから思い出した)、

実際に子どもができた今となっては、感じ方が少し昔とは違っていた。

あと自分の子どもではない子どもの養育に関わるという職場であるというのも、

この映画へのとらえ方を少し変えていたのかもしれない。

 

客観的事実がどうか、一緒に過ごした時間がどれくらい長いか、

ということだけではなく、その時間の質というか濃さというか、

人との関わりの中では、そういったことのほうがものをいうことがある。

 

 

・・・今私は、育児休業のおかげで、父として息子氏や妻との時間を

人より多く過ごすことができている。

 

そのおかげもあって、息子氏は妻だけでなく私にも懐いてくれており、

いわゆるアタッチメント(愛着)というものを感じさせてくれる。

 

そしてそのことは、育児を妻に偏らせない一助にもなっている。

 

 

ただ、仮に一緒に過ごした時間が、余白のない、ギスギスとした時間ばかり

だったとしたら、どうだっただろうか?

 

どうしても余白をなくしがちな私は、そうなる危険性も兼ね備えていたし、

むしろ、一緒に過ごす時間の「量」で

カバーしただけかもしれない、なんてことも思う。

 

 

一緒に過ごした時間の量が少なくても、その質やら濃さが

お互いにとって十分だったら、それでもいいのかもしれない。

 

というかその質やら濃さの「十分さ」は当事者以外の誰も、決めようがない。

 

 

 

親だってかけがえのない自分の人生を生きている。

 

親とはいえ、個人としての目標や人生を謳歌したい、というのも大切。

一方で、子どもにとってかけがえのない親の存在は大きい、というのも大切。

 

そのバランスに答えなんかないようにも思う。

 

 

子どものためにすべてを犠牲に、というのは美談になりがちだが、

「お前のためにこっちはいろいろと犠牲にしたってるねん!」

てのは子どもに対して恩着せがましいだけで、子どものためにはならない。

 

 

結局のところ、「父になる」というのは、

子どもと過ごす時間の質や濃さを自分なりに大切にする、

ということなのかもしれない。

 

ただでさえ長時間労働が問題になりがちな日本では、

家庭を十分に顧みることができない人は多くいるだろうし、

もともと奥さんに任せるつもりで顧みる気がそもそもない人もいるかもしれない。

 

そのバランスは家庭によって違うだろうし、

その家庭内での一定の合意の上で、

ある程度バランスが取れていたらそれでいいんだと思う。

 

 

とはいえ、少なくとも私は、育児休業から復帰したら、

どうしても息子氏と過ごす時間の「量」は減るので、

その分、息子氏と過ごす時間の「質」を

十分なものにしていくべく、頑張っていこうと思った。

余白

あと10日ほどで育児休業が終わる。

 

息子氏の子育てが中心とはいえ、合間を縫って資格試験やら引越しやら仕事やら

していたら、気づけばあっという間だったなぁ、と1年+αを振り返る。

 

 

・・・その中でも一番の収穫は、

自分の中での「余白」を大切にする

ことを学んだことかな、なんて思う。

 

 

もともと、いろいろ詰め込んでしまいがちな自分に嫌というほど気付かされた。

以前にも書いたことがあるが、「無力な自分」に向き合うことを避けて、

何かをやっていることで、「できる自分」でいたかった

という面が大いにあると思う。

 

実際にそれで進展できたことはいろいろあるとはいえ、

無力である自分を打ち消そうとし続ける限り、何かをやり続けないといけない。

そんなマグロみたいな生き方は、ずっとは続かない。

 

 

それに、日常の中に「余白」がないと、

息子氏に笑顔を向けることができないし、日々のちょっとした変化に気付けない。

妻とゆっくりと会話・雑談を楽しんだりすることもできないし、

自分の心がいつも追い立てられて、落ち着いていられない。

 

 

あとそのためにも、やりたいこと・やりたくないこと、

やらないといけないこと・やらなくてもいいこと

それらをちゃんと見極めることは大切。

 

 

家事に代表される「シャドーワーク」をしないと日常は回らない。

 

・・そういう意味では家事は「やらないといけない」ことだが、

余白がゼロな状態でないと続かない日常は、どこかに無理がある。

 

緊急事態など非日常では余白とか言ってられないが、

逆に、余白のない非日常が、日常的になってしまうのは、避けたい。

 

それなら、無理をしていることをちゃんと自覚して、他の人の力を借りてでも、

何とか「無理なく続けられるカタチ」を模索していくほうがいい。

 

 

さらに家事が「やりたいこと」ならいいが、もし「やりたくないこと」ならば、

日常に支障がないラインを見極めて、

手抜きできるところはいくらでも手抜きをしたらいい。

 

誰かが「やらないといけない」家事や作業っていくらでもあるし、

みんなが「やりたくないこと」なのであれば、

みんなで話し合って分担するとか、「やりたいこと」になるような工夫が必要。

 

 

「やらないといけない」家事などがあって日常が回っている。

 

その大切さはしっかり自覚した上で、

少しでも「やりたいこと」を個々で尊重し合い、大切にできたら、

日常にちょっとでも「余白」が生まれるような、そんな気がしている。

 

 

 

・・・またまとまらなくなってきたが、

「自分の余白がどれくらいあるか」も踏まえて

日々を過ごしていくことの大切さを学べたことは、

息子氏が生まれたことを契機に取得した育児休業によって学べたことで、

今後の人生においても大切にしていきたいことでもあることは間違いない。

 

 

 

追記:

育児休業によって余白ができた、というように読めてしまうなと思い、補足。

(まぁ仕事をしながらの育児だと、私は余白を完全になくしてしまっていた

 だろうし間違いではないが、今回の記事の趣旨とはちょっと違う)

 

「育児」という営みにおいて、必然的に子どもの都合が大いに反映されるため、

大人の「余白」はどんどん削がれる。

 

私は長期の育児休業を取ることで「育児」に向き合うことを試みたが、

もともと「余白」の少ない生き方・過ごし方をしがちだった私は、

「育児」と向き合うことで、どんどん自分の「余白」を削ってしまっていた。

 

いわゆる仕事では、自分の余白を削ってでも結果的に

パフォーマンスが上がれば評価されることもある(本当は良くないと思うけど)。

 

ただ「育児」においては、「余白」がなくなることの弊害が少なくない、

むしろ「余白」を確保しておかないと長いこと続けていけない、

そう確信したからこその今回の記事です。あしからず。

悪化する便秘

離乳食を始めたころから便秘がちになっていた息子氏は、

今でも排便は、だいたい3日に1回くらいの頻度。

 

・・それが今月に入った頃からさらに悪化して、1週間くらい出ない日が続いた。

 

母乳外来にいかざるを得ないくらいの授乳の痛みに耐えかねて、

日に日に授乳頻度や時間が少なくなってきていることも大いに

関係していると思われるが、最早いかんともしがたい。

(体に入る水分が単純に減るから、だったりもするらしい)

 

 

さすがに1週間たまったものを出すときの息子氏はかなり痛そうで、

泣きながら、コロコロとした便を二日に分けて出すので精いっぱい。

 

 

・・・一時期はうんち爆裂拳・師範代を襲名するくらい、ところかまわず

ブリブリしていた息子氏が、こうなるとは、予想だにしなかった。

 

成長に伴うものではあるとはいえ、しっかり水分とらせたり、

バナナやら繊維質のあるものをちゃんと食べさせようと思った

我が家なのでありました。

 

 

 

追記:朝食にバナナをあげ続けていたら、2日に1回くらいまで排便の頻度が回復した。

食事の持つパワーってすごい。

母乳外来

授乳が痛くてたまらないのと、断乳についての相談をするために、

妻は初めて母乳外来なるものに行ってきた。

 

妻が色々なブログやネット記事などを見ていると、母乳外来で

溜まっている母乳を絞りだすのは「ものすんごく痛い」らしかったので

大いにビビりつつ受診に行った。

 

ただ、確かに痛かったものの、予想よりはましだったそうで、

ビビッて想像を膨らませることも悪いばかりではないなぁなんて話し合った。

 

あと断乳については、1歳をこえてきたら、子どもとしては

食事からの栄養をしっかり取ればそれでいいらしく、

いつからでもいいとのこと。

 

 

・・自分なりにいろいろ調べたり考えたりしても

どうしたらいいかわからなかったりするときには、

いっそ専門家に相談するというのは有効だなぁと改めて思った。

断乳への決意

なんとなく保育園までに断乳をしないといけない、と思ってはいるものの、

いつから始めるか、ということについて決意できないでいた我が家。

 

 

なんといったって、息子氏対策として、

最強の座に君臨し続ける「おっぱい」への甘えを断つのは、

息子氏にとっても、そして親にとっても容易な事ではない。

 

 

妻とは何度も話し合いを重ねつつも、

日常を大きく崩すことになりかねない事態でもあり、

息子氏の荒れを想像し、そこに対する対策の少なさを考えると、

いつから、というのが決意できないでいた。

 

 

・・・決意するのは、大人の役目であることもわかっている。

ただ、決意には、いろんな意味で「痛み」が伴う。

 

その痛みを避けて先延ばししたくなる気持ちも、

人間ならば自然なことだったりする。

 

 

 

・・・そんな我が家は、妻に現れたある変化により、

断乳を決意せざるを得ない事態に陥った。

 

息子氏に授乳することが「痛い」という変化、である。

 

離乳食も完了期となっている息子氏は、

妻から摂取する栄養は、ほとんど必要なくなっている。

 

しかし授乳の回数に応じて、妻の身体は母乳を作り続ける。

その結果、母乳は溜まりがちになり、

乳腺炎を起こし、授乳が「痛い」ことになった。

 

 

決意に伴う「痛み」よりも、身体的な「痛み」のほうが

直接的でパワーがある。

 

・・・少なくとも我が家ではそうだった。

 

 

断乳は、やってしまえばすぐだったりもするかもしれないが、

各家庭の状況や心情やら、やむを得ない事情も含めて考え、

あくまで当事者が決断するのがいいように思う。

 

決断に伴う「痛み」も、結局のところは当事者のものでしかないし。

 

そんなことをふと考えた。

手が下がりだした独り歩き

 

数か月前に二足歩行を覚えて、数週後にはものにしていた息子氏。

 

歩ける場所やらスピードやらの幅が広がってきたなぁと思っていたが、

最近、息子氏の二足歩行がさらなる進化を遂げていることに気付いた

 

1月ごろは、おそらくバランスを取るために、

腕を挙げて手のひらも顔の横らへんにきていたのが、

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最近では、

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手・腕が下がっている・・

 

 

おそらくは体幹やらバランス感覚が発達してきて、

手を挙げてバランスを取る必要がなくなってきたのだろうが、

なんか、改めて息子氏の

「ふと気付いたときにはすでに成長している感」がすごい。

 

 

 

・・・これからいくつ、息子氏の成長を感じられるだろうか。

 

そんなことをふと思った。