昨日も書いたけど、子どもが機嫌よく一人で遊んでいる時なんて稀。
大人が構わないと、泣く。
大人が構うと、泣き止む。
何百万年年もの人類の歴史の中で赤子が身につけてきた、生き抜くための本能に、ただ屈している我が家。
そして、そうやって育児に専念すると、料理したり洗濯したり掃除したり、といった家事ができなくなる。
・・・よく「家事・育児」みたいに並列で述べられるこれらの二つの事。
改めて考えたら当然のことだけど、実態としては決して並列ではなく、全くの別作業ですよね。
抱っこし続けながら家事をするか、ギャン泣きし続ける赤子を放っておきながら家事をするか。その二択。
いずれにせよ、普通にするよりも、身体的負担ないし精神的負担が強いことには変わりない。
幸い我が家は育児休業のおかげで、どちらかが育児をしている間にどちらかが家事を進める、ということでなんとか無理なく回すことができている。
・・・本当にいつも思う。
ワンオペ育児をしている人は、すべからくしてスーパーマンであるか、相当の負荷のもとで生きている。
昔はみんなそうやってたのよ~っていう年配の方々も少なからずいるかもしれない。
ただ、共働きが当たり前になってきたこのご時世における家事・育児と、昔の家事・育児の負荷について、単純な比較は出来ないと思う。
もちろん、逆に今のほうが、家事がスムーズになる家電があることやら、育てる子どもの少なさとかで、楽になる要素はあるとも思う。
ただ要は「単純な比較は出来ない」のであって、「あたかも自分がやってきたことが当然」であるように、精神論だけで乗り越えるのは無理がある。
単純に「しんどいのものはしんどい」のだから、それは他でもない自分が、ちゃんと認めたらいいと思う。むしろ自分が認めないで、誰が認めるのだ、とも思う。
そのしんどさに自覚的になってストレス発散や息抜きをきちんととるか、しんどさに蓋をしながら心身を蝕み続けて生きるのか。
最終的には個人の選択なのかもしれない。
ただ私は、次世代を育むという行為が、少しでも健全な環境の下で行えるようであってほしい、と切に願う。
だから私は、「家事と育児はそもそも別の作業」であるのだから、「どちらもできて当たり前、ということは決してない」というところからスタートして考える必要がある、と最近しみじみと思っている。