マンツーマンで息子氏と数時間か過ごすことは何度もあるのだが、そんなときに、
子どもと時間と過ごし、子育てに向き合うというのは、
「自分の無力さ」や「どうにもならないこと」に向き合う、
ということでもあるのかもしれない
みたいなことを、実感も含めて思うことがある。
今日はそのことに関わる思いをつらつら書いてみる。
・・・子育ては楽しい面もあるが、しんどい面もある。
しんどい面としては、子どもに付き合うための「身体的」な体力とかのほかに、
そういった「精神的」なことも結構大きいかもしれない、と思う。
よく言われる言説として、
「子どもなんて思い通りにいかなくて当たり前」
といったものがある。
実際にその通りだと思うし、大人の言うことを多少は聞けるようになる年齢になるまでは余計にそうだと思う。
(大人の言うことを聞ける年齢というのは、基本的生活習慣を習得し始める時期とされる、幼児期後期(目安としては4~6歳)くらいのイメージでいる)
さらに、親の言うことを多少は聞ける年齢になったとしても、
子どもというのは脳の仕組み上、
大人である親や養育者よりも衝動的で自分の感情をコントロールできなくて
当たり前だし、なんでもかんでも大人の思い通りにはなるわけはない。
そもそも論で言ってしまえば、自分の子どもとはいえ、自分とは別の人間だしね。
つまり、思い通りに子どもが行動したり育っていったりなんてことは本来あり得なくって、
仮に、大人の思い通りにしようとしたら「力」が必要になる。
その「力」はもしかしたら子育て上の工夫やテクニックだったりもするかもしれないが、
その「力」は使い方を間違えると、マルトリートメンント、虐待といったことにつながってしまう。
子どもに使われる「力」が、大人のためだけ、大人の都合のみによるものの場合、その使い方は間違っている。
あくまでその「力」は、子どものために使われるものでないといけない。
児童福祉の現場にいると、どうしてもそういう思いが強くなる。
話はまた少しずれるが、近代以降、人間の力で「コントロール」できるものが増えてきたと言われる。
たとえば今でも、スマホを開けば、思い通りにゲームをしたり、情報を得たり、動画を見たりができる。
でも、何から何まで思い通りになるものは、基本的に人がそのように作った「人工物」でしかない。
そして子ども含め人間は、天候やその他の動植物と同じく基本的に「自然物」。
これまでの科学的知見などからその後どうなるかの予測はかろうじてできたりできなかったりする程度で、完全にコントロールすることはできないといっても過言ではない。
まぁ最近では人工授精に代表される生殖医療やら、そこに大人の意思やら意図やらがかかわるから少しややこしいが、決して子どもは「人工物」ではない、という認識が必要だと思う。
・・・私自身もそうだが、子どもが思い通りにいかないときは「無力さ」を感じる。
また、自分のペースややりたいことを二の次にして対応しないいけないときは、
自分の領域を侵食されたように感じて「怒り」の感情を持ったりもする。
でもそれは、コントロールできることが身近に多くある現代人だからこそ、という面もあると思う。
コントロールできること(人工物)に慣れてしまった現代人は、
コントロールできないこと(自然物)に不寛容になったのかもしれない。
だからこそ現代においては、
「子どもなんて思い通りにいかなくて当たり前」 というアタリマエを、
改めて胸に留めておかないといけないと思うし、
子育てにおいて「どうしようもないこと=自分ではコントロールしきれないこと」に向き合う時には、
・子どもをどうこうする以外で、自分の力を発揮できる活動や、自分でコントロールできる領域を確保しておいたり、
・そもそもの「力」や「コントロール」へのこだわりから手を離したり、
・なんとかなる、と楽観的になったり、
・子どもの成長・発達の見通しがもてたり、何とかしようがあること/何ともしようがないことが仕分けられるように「知識」をつけたり、
・思い通りにいかないストレスに押しつぶされる前に他の人に頼ったり、
そういった「1人で子どもをコントロールでしきれなくても大丈夫な仕組み」というか、
自分の無力さやどうしようもないことへの対処方法を、状況に応じて使い分けながら
日々を過ごす、ということが大切になるのだと思う。
・・ただ、これらのことは「言うは易し、行うは難し」だったりもする。
私自身、子育てにかなりのエネルギーを注ぐことになって気付くのだが、
うちは夫婦ともにもともとマイペースで、さらにロングスリーパーなので、
子育てには身体的・精神的ともに不向きな特性を養育者二人とももっていた。
1人の子どもに夫婦ともに育休とらずともやっていけるご家庭は多数あると思うが、
我が家では、その体制を敷いてようやくなんとか乗り切れている、という実感がある。
さらに言えば、妻のほうが「どうしようもないこと」には寛容で、
私のほうが「どうにかしよう」と無理に解決志向的に行ってしまう癖がある。
そういう意味でも、子育てってある意味ですごく自分自身の臨床力を鍛えられる取り組みなのかもしれない。
・・・そんなことを、思い通りにいかない目の前の息子氏と向き合わず、
つらつら思考を巡らせる、未熟な私であります。